50メートル先の話
僕等は横一列で律儀に並び、爪先をほんの少しだけ開いて踵を合わせていました。
履き慣れたローファーは、今日の為に家の者の誰かが磨いたのか太陽の光を浴び輝いていましたが、隣の彼女のローファーは光沢無くくすんでいて、ですが僕にはそれが何故かどの靴よりも高価なものに見えました。
雑踏の中こんなにも姿勢良く、且つ2人で寸分の狂いもなく隣に立っているのは見回した限り僕等だけです。
たったそれだけで僕達は特別なんだと思えるほどの高鳴りは出会いの頃から変わりなく、今も僕の胸を何度も何度も電気信号を送り血液を送り出しています。
だからでしょうか。いつもは冷え性の僕ですが、今日はいつもより頰がほんのり赤みを帯び、手の平は熱を集めて思わず握り拳を開きました。
僕がそんなことを考えている時、彼女が何を感じ考え想っていたのかは分かりませんが、僕等は漸く徐に右足を前に出して歩き出します。
身長が大分大きな差を開き、僕がゆっくり歩くようになったのはいつからでしょう。もう忘れてしまいました。
「私の身体は飴細工で出来ています」
彼女は桜色の唇を動かし甘い香りを語り出しました。可憐な見た目通りの細い声は風と足音で掻き消されてしまいそうで、僕はそおっと隣を歩きます。
視線だけ彼女を盗んでやると、表情の乏しい彼女は相変わらず笑みの1つもありはしませんでしたが、それはそれは大層美しい横顔で「知っていましたか?」と僕に疑問を投げかけた言葉を聞くまで情けなくも見惚れていました。
彼女は見目も、中身も、香りすらも、美しい人でした。
彼女の言葉でやっと口を開く許可が下りたと僕も暫し休暇をもらっていた声帯を使いゴホンと軽い咳払い。格好をつけて拳を口元に当てたのに、残念ながら彼女はこちらではなく前を向いていました。
「ええ、知っていましたとも」
僕は答えます。
彼女の飴細工のように美しい声も香りも、いつ何時でも思い出すことが出来ますとも。誰よりも自信があります。
彼女からまた質問が飛んできました。
「あなたは私のことが好きですか?」
「ええ、誰よりも好きですとも」
今度の問いには間を入れずに答えました。
だって選択の余地のないものでしたから。明白すぎて悩む必要もなく、彼女の美しさに惚けてもいませんでしたから。
胸を張って堂々と答えた僕に彼女は「ではお聞きします」と僕に対抗するようにまたまた問いを投げかけようとします。
僕は彼女がよく話してくれるのが嬉しくて「なんですか?」と答える気で待ち構えます。なにせ愛しい彼女の質問です。僕を気に掛けてくれているようで幸せな気持ちになるものです。
同じスピードで隣を歩く、なんと心地良いことか。彼女の五感がまず先にキャッチするのは僕の声や匂いだろうか。そんなことを不純にも思ってしまいました。
しかし僕は紳士な男です。不快にさせることなどするものですか。
脳内の煩悩をおりゃっと遠くへ投げ捨てて、彼女の問いに聞き耳を立てました。
「飴細工と私、どちらがお好きですか?」
変な質問をするな、と思いましたが僕はすぐに返事をします。
「もちろんあなたです」
「根拠はありますか?」
前のめりで彼女はまた質問を重ねました。驚きで僕は「…根拠ですか?」と吃ってしまい彼女に顔を向けましたが、案の定彼女は前だけを見ていました。
立ち止まる事はありません。黙々と、淡々と、彼女は足裏をしっかり地面につけて着実に歩いています。もう10,20メートルは歩いたかもしれません。
彼女は昂ぶることもなく萎えることもなく、用意された台本をただ読んでいる。そんな感覚に彼女の問いはさせたのでした。
「ええ、根拠です。理由です。私を飴細工より好きな理由です。飴細工の私より私の私を選んだ理由です。今のように迷いなくお答えすることは出来ますか」
「えっと、ですね」
「出来ないなら、何故出来ないのですか。本当は私より飴細工が好きかもしれないとは思いませんか」
ちんぷんかんぷんで、あやふやで、歪な言葉達は僕の周りに纏わりつきますが、僕はそれの半分も理解してはいませんでした。
『私の私』とはどういうことでしょう。『飴細工の私』の私とどのように違うのでしょう。彼女は彼女で、美しい彼女でしかありません。
それでも彼女にとっては黒と白よりもハッキリとした違いがあるようで、前だけを一心に見つめる横顔に迷いはなかったのです。出鱈目に口にしているわけではないとすぐに分かりました。
30メートルほど歩いた所で彼女の歩幅が僅かに狭まりました。まるで到着地の何かを恐れるように怯えているのです。
愛くるしいと思う私は酷い男でしょうか。愛しい人の行動1つ1つに心を踊らせるのは男の役目だと僕は思うのです。
僕は飴細工の彼女の手を握りました。ゆっくり絡まる彼女の手は飴細工のように僕を絡め呑み込みます。きっと今僕の手は心底甘い香りと味がするに違いありません。
「あなたは飴細工のように繊細で可憐で麗しく、甘い香りを纏い僕を毎日のように誘惑して来るのです。『私の私』というものが僕にはよくまだ分かりませんが、あなたであるのならば『私の私』も変わらず『飴細工の私』と同じように愛して見せましょう」
「分からないのに、愛するのですか」
「ええ、僕の愛が尽きるまで」
あなたがあなたであるのなら。繊細で今にも儚く消えてしまいそうなあなたであるのなら。僕はおそらく、どんなことでも出来ますよ。
見くびってもらっちゃあ困ります。僕がどれだけあなたを愛しているか、分かってないのはあなたのようだ。
今度は僕の歩幅に合わせて歩き出しました。向かう先はもう直ぐそこです。目の前に大きく構えて僕等を待っています。
目の良い僕には見えました。目の良い彼女にも恐らく見えているはずです。目的地の場所は見た目以上に大きいものが見えました。
彼女はあれが怖いのでしょう。なら僕が守ってあげれば何も問題はないのではないでしょうか。如何ですか?愛しい人よ。
もう数十メートルを残して僕等は横に並び語り合いました。騒がしさなど気になりません。彼女が僕の隣にいるのなら、悩む事など何もないのです。
彼女は何を考えているのか脳内を見る事は出来ませんが、口を開こうとする際の唇は震えていて口付けをしてその震えを抱き締めてあげたくなりました。
僕はまた煩悩を横に捨てます。彼女を困らせてはいけませんからね。
「飴細工は脆いのです」
「知っていますよ」
「甘美であると目が眩んで思わず好きになっているだけかもしれません」
「でもあなたの味があるのだから、沢山の飴細工には惹かれずあなたを選んだのですよ。破れないように味わいたいとキスもしたくなるのです」
綺麗は物は、もちろん綺麗です。目が惹かれるのは仕方ないこと。彼女に惹かれたきっかけはそうかもしれません。
しかし、飴には飴の味があるのです。あなたにはあなたの味がするのです。僕はそれが、好きなのです。飴細工なあなたを愛しているのです。
重たいでしょうか。苦しくて離れたくなるのでしょうか。そうであるならば申し訳なく心苦しい気持ちでいっぱいですが。
「僕が3年間贈った気持ちを、疑うのですか」
出会った春。気持ちを伝えた夏。育んだ秋。想った冬。繰り返し繰り返し、飽きもせずあなただけを見てきた僕を、疑うことはしないでください。
僕の言葉に漸く彼女はこちらに顔を向けました。無表情だった薄氷の表情は春の暖かさで溶け、溶け水が目元を潤しています。
5メートル。その先のものに葛藤を覚えているのかもしれませんが、心配なさらないでください。もう飴に絡んだ手は離せそうにありませんから。あなたもきっと、同じはずです。
3メートル。僕は前を向きました。僕等を待つそれに、未来の嵐を気象予報士顔負けの予報をします。
きっとこの嵐には苦労します。手を繋ぐ僕等に向ける顔はどこの谷より険しく、どこの火山より憤怒で満ちていますからね。
ですが、これは僕が解決すべきことです。隣で歩いてくれる彼女を守る為なら、僕は家族とでも闘うつもりです。出会った時から覚悟などとうに出来てました。
1メートル。彼女に向き直りました。僕を見つめる彼女の頰は雪よりも白く桃より甘いピンク色です。撫でたくなるのを我慢しました。
そろそろ目的地も到着です。今度は僕が彼女に用意した言葉を投げ渡さなければ。彼女の赤いスカーフが風で飛ばされてしまう前に。ローファーを脱ぎ去り走り出してしまう前に。
0メートル。春の門出は、僕等の愛を捧げることに致しましょう。
「僕の隣を婚約者として、これからも歩いてください。この指輪に誓って、門をくぐったこと、手を離さなかったこと、後悔などさせません」
身分など、飴細工より脆いのですから。
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