愚すは矮小

 私は今、筆を取り文字を認め思考を巡らし机に向き合っているが、果たしてそれに何の意味があろうか。この行為というものが一体どれほどの価値があり、どれほどの意味を持ち得ようか。ふと思った。
 小説家になるための才能が開花するやもしれん。将又精神統一として心の波を鎮め宗教に似た何かが得られるやもしれん。
 ここでまた思考を巡らす回路が増えたことで渋滞気味であった巡りは循環し、更に奥へと進出していく。しかしそれにも意味は特に思いつかなかった。
 私は筆を取る手をピタリと止める。
 写生でもなく考えを吐き出してまとめるでもなく、意味のない言葉達が手元の紙に畝っていた。
 芋虫のようにぐねぐねと。まるで生き物のように。
 胸郭をめいいっぱい持ち上げて、大きく息を吸って吐き出した。膨らんだ肋骨は軋むことで痛みが鈍く生じたが、収縮していく肺に合わせて萎み、つられるように痛みも消えていく。
 そこで漸く思い出す。自分が何を書こうとしていたのか。目的すら忘れて文字を綴っていたらしい自分に呆れた。くしゃり、苦笑を零した。
 背筋をぐっと伸ばして首を回し、筆先に墨を付けてからまた文字を認める。今度は意味があるものを書けるといい。
 しかし、目的を思い出してもなお意味のある文字は一向に書面に現れはしなかった。また芋虫がのそりのそりと這っているだけであった。
 どうしてだろう、私はまた考えた。
 意味の無いことを考えた。
 当てのない時間ほど価値のないものはない。無駄な時間を過ごしたと後悔が容易く生まれて、まあいいかと容易く解決される。嗚呼、何て軽く薄っぺらで薄情な時間であろうか。
 チチチ。開放されている窓辺に小さな小鳥が止まった。
 雀でもなく、艶やかな羽毛を纏って黒い背と白い腹を持った名の知らない客人は、チチチと数度私に声を掛けた後ヒョロロロと鳴いた。
 私を馬鹿にしている様であった。半紙よりも薄い人生であると嗤っている様であった。私が言い返せないことをいいことに、小鳥はヒョロロロ、ピロロロ、よく鳴いた。いや、嗤った。
 悲しいことに、その小馬鹿してくる嗤い声は初夏の陽気には大層一致していて、陽射しの麗らかさを引き立てる。
 お前はいいね、この青空を自由に飛べて。そんな私の言葉に小鳥は応えた。
 お前は愚かだね、一人でずっと死を待つだけの時間に埋もれて。
 見透かされていることが酷く滑稽で、自分の愚かさを掻き立てた。その通りであった。
 幾ら亡くなった妻へ文字を綴ろうとも、幾ら寂しさを紛らわすために気持ちを落ち着かせようとも、幾ら小鳥の自由を羨もうとも、全て意味を持たないのはそういうことであった。
 持て余している余生を、名の知らない客人はいとも簡単に見抜いてまたピロロロと嗤った。嗤わずにはいられなかった。
 小鳥は桟から羽を広げ飛び立って、近くの赤い果実のなる枝に止まって啄んだ。美味そうに口先を赤く染めてむしゃむしゃと食らう。余生のことなど考えたこともない、と野生らしく。
 だから小鳥は私を嗤うのだ。先のことばかり待ち構えて今を生きぬ私の卑しさに、浅はかさに。
 だが私は意味のある時間など、とうに忘れてしまっていて思い出せそうにもなかった。いつかの温かい日常を思い出したくもなかった。
 小鳥は実るもの全てを食い尽くしてしまうのかと思うほど啄んではパタパタと羽を揺らす。
 私はまた小鳥に声を掛けた。お前さん、どうかその果実のように、私も喰らい尽くしてはくれないか。
 小鳥は応えた。お前さん、干された果実になど興味はないよ。
 小鳥はヒョロロロと私を嗤いながら、あっさり何処かへ飛んでいった。

金釘流

私は泥沼に沈みながら考えていた。

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