蜜柑と彼女
今から僕は、少し不思議で、だけど魅惑的なある女の子と蜜柑の話をしようと思う。それは僕が学生の頃の話だ。
確かに、そこの家の塀は150センチ程度と決して高くない。そのくせ道路まで伸びて狭い道路を占領している大きな蜜柑の木は、登下校する学生からよく邪魔がられていた。
それでも、鮮やかなオレンジ色の果実がぷくりと幾多も実れば、風に乗って蜜柑の匂いを歩行者に届けてくれる。この、住宅地のある通りを歩く人だけが知る、大きな蜜柑の木が立っていた。
そんな蜜柑の木が立つ道を帰路とする僕は、いつものように学業を終えて日もまだ暮れぬ時間から家への道を歩いていたのだが、香りに誘われ心を踊らせていたのがこの瞬間、僕だけではないことに気付く。
女の子である。同じ学校の制服の女の子。そしてその女の子のことは誰かすぐに分かった。煙草や万引き、虐めや暴行、援交といった、悪い噂の絶えない有名な女の子であった。
そんな子が、ただの蜜柑の木の下で足を止め蜜柑を眺めていた。それが噂の野蛮さとは対照的に繊細で儚く、まるで彼女から蜜柑の香りがして僕を誘っているように思えた。しかも恥ずかしいことに、幾つもの太陽が実っているそれを飽きもせず、ぼんやり立ち尽くして眺めている姿に僕はつい見惚れてしまったのだ。
恥ずかしさに歩みを止めて顔を腕に埋め火照りを冷ましていたところ、足元の砂利を靴底が擦り鳴らした事でまるで彼女からハーブの音色でもしていたような幻聴も止まる。僕に振り向いたことで、蜜柑の木と一体化していた彼女は噂の女の子として蜜柑の木の下に立っていた。
彼女は僕のことを頭の先から爪先までじっくり舐めるように見た。
誰もが守らない帽子をきちんと着帽し、第一ボタンまで止めて制服を着ている僕は、極めつけにピントの合っていないお下がりの大きな眼鏡をしていた。校則を守る事なくスカート丈を短くし、胸元のリボンすら何処かに忘れてきている彼女にとって、僕のことは宇宙人にでも見えているのかもしれない。
しかし、彼女は何も言わなかったし、僕から目を逸らして蜜柑にまた視線を向けて僕に話しかけた。
「君も食べたいの?」
先に謝罪したいのだが、彼女の噂は品行がない。不特定多数の男性ととある行為をしている、しかも学校の教師とすら関係を持っているなどという噂すらあるのだ。だから、僕はその言葉がてっきり『君も"私を"食べたいの?』という誘い文句に聞こえてしまったのだ。
失礼極まりない話である。すぐに僕は彼女の視線から蜜柑の話だと理解したが、少しでもそのような品のない考えを持ってしまったことに彼女に土下座したくなった。
申し訳なさに1人身勝手に苛まれて彼女の言葉に答えられず、唇を噛み締めて震えていると、彼女は「そうだよね」と何故か僕の答えを聞かずに話し出した。まるで僕から返事を受け取ったみたいに。そして気付く、彼女は僕なんかに質問をした訳ではないのかもしれないと。
傲慢にも程がある。僕はさらに自分のことが恥ずかしくなり、蜜柑の香りどころではなくなった。しかし彼女は僕のことなんて見ていないから、1人また語り出すのである。僕に話しかけているわけではないのに、聞き逃さないようにと耳を傾けてしまう自分がいて、恥の連続だった。
「折角あるのに腐るまでここにあるだけなんて可哀想だよね」
可哀想だよ。君はとっても可哀想。彼女の言葉にまるで僕のことを言われているような気がして背筋が思わず伸びる。張本人の蜜柑だけはただ風に揺られて香りだけを周囲へ撒いていた。
自由すぎる彼女はガチガチに規則で固められた僕を可哀想と思ったのだと、僕じゃなくともそう思うはずだ。これは揶揄だ。彼女が僕を見て感じた本音を蜜柑の香りに乗せて伝えているのだ。
そう考え始めると、素行が悪いとされる彼女らしく感じ始めて、先ほどの優しい雰囲気に見惚れた自分を次は叱責したくなった。
だが、そう簡単に思考の回路は進みはしない。プチンと音がした。ショートする音に似た、彼女が立てた小さな音。香りが途端に強くなったような気がする。
彼女が蜜柑をもぎ取った音であった。ちなみにその蜜柑の木は塀で囲われた家主のものである。よって蜜柑も所有物だ。しかし、彼女はまるで創世記のエバか何かだろうか。
またプチンと音を立てて2つ蜜柑をもぎ取ると、もう蜜柑の木に見向きもせずに僕が立ち尽くしていた方へ歩み寄り僕に蜜柑を差し出した。
「あげる」
先ほど尋ねた『君も食べたいの?』という質問に僕はイエスと答えたのかもしれないと記憶を手繰り寄せる。しかし答えた記憶はこれっぽっちもない。ただ香りだけが強く僕を包み込んで、彼女の傷んだ金髪の髪が蜜柑の色と相まって綺麗に見えた。
「……人様の木の蜜柑だと思うのですが」
僕はつまらない男である。だから可哀想に見えるに違いない。あそこにぶら下がって腐り落ちるまで待つ蜜柑と一緒だ。彼女の手元にある食べてもらえる熟れた蜜柑とは、同じ木から成ったというのにどうしてたった数分でここまで差がついているのだろう。
僕の言葉に彼女は気に留める様子も無く差し出した蜜柑を僕に押し付けた。そしてすれ違い様に「なら、」と彼女は蜜柑の香りと共に僕に残した。
「共犯だね」
今でも貰った蜜柑は僕の机の上に飾られて、彼女の代わりに蜜柑の香りを僕に届ける。
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